日記

猛暑、初めて歩く三陸
2020.08.11

今日は朝のニュースで全国的な猛暑となると流れていた。ここ岩手県も例外ではないようだ。
5日間お世話になった宿を出発。まだ8時だというのにすでに蒸し暑い。あっという間に汗だくだ。
今日は大船渡市(おおふなとし)から釜石市(かまいしし)までを歩く約30キロ。海岸線といえども、リアス式海岸は楽ではない。海底が隆起してできた北上山地が、長い三陸海岸を形成しているため、南北に歩くと尾根谷の連続、アップダウンの連続となる。

越喜来(おきらい)の集落に出ると、遠くに海ではなく、予想以上に高く異様に見える防潮堤が目に飛び込んできた。家々は高台に固まり、かつて町の中心地だったと思われる場所は雑草が生い茂る更地となっていた。
地震からもうすぐ10年だが、これまで伝えられてこなかった、知らなかったことがまだまだあるような気がしていた。

山を越えて、隣の吉浜地区に入ると雰囲気が変わった。よく見ると吉浜地区の防潮堤は低かった。地元の方に話を伺うと、ここ三陸は長い間、4、50年に一度津波が来る歴史があるという。
ここ吉浜は明治29年と昭和8年の大津波で甚大な影響を受け、歴代の村長さんが全村民の高台移住を推し進めたことで、東日本大震災の時は、他の地域とは影響の大きさが全く違ったそうだ。
他の地域では10メートル以上もある防潮堤が、吉浜地区では半分ほど。建設計画時にこの地区の人たちが、海が見えなくなるほどの防潮堤はいらないと反対したという。また必ず来るであろう次の津波のために、「津波から逃げるためには海が見えなくてはダメ」という言葉が響いた。

吉浜駅を経由して、少し行くと日本一小さな本屋さんがある。そこは民家の玄関で四冊の本が売られていた。
おばあちゃんがお一人いて話を伺うと、東日本大震災の時の実体験を後世に伝えるために、息子さんが手がけた「ふろしきづつみ」という絵本を売ることになったのが始まりだったそうだ。
震災当時は、ご主人が入院していた陸前高田市立病院にいたそうで、四階の入院病棟にまで津波が来たことが描かれていた。本を読ませていただきながら、当時のことを話してくださるおばあちゃんの顔がとても悲しげで忘れられない。

時々通過する三陸鉄道の車両に手を振りながら、山を越えて、次、また次へと集落を抜けていく。
津波の到達地点が記された看板が目に留まり、リアス式海岸独特の地形により、津波の浸水高度が集落により異なったそうだ。唐丹(とうに)もその一つ。津波の高さは三陸鉄道の線路を越えたという。駅前で店を営むおばちゃんが指差した、高い防潮堤の先に見える沖の松の高さまで津波が来たという話が、にわかに信じがたかった。その松を出来上がった防潮堤に登って見ると、海面から20メートル以上はあるように見えた。
それ以上に、防潮堤からみる三陸海岸は美しく。当時のことが伝わるような景色は見あたらなかった。

次の集落へと坂を上りながら振り返り見る防潮堤が、ダムのように見えていた。午後2時を過ぎると気温はさらに上昇。国道の温度計が36度を記録していた。頭痛が酷くなり、体もだるくなっていた。軽度の熱中症になってしまったようだ。最後はヘロヘロになりながら、釜石市のホテルにたどり着いた。
なんとこの日、釜石市では37.9度を記録していたそうだった。そりゃ熱中症になってもおかしくない。氷で身体を冷やしながら、三陸海岸線を歩いた初日を振り返った。

テレビなどで伝えられてきたことが、いかにごく一部の出来事であったかということ、同じ集落に住んでいたとしても、当時どこで何をしていたかで結果が大きく違ったこと、それによって今の心境にも差があること。防潮堤一つに対してでも思いや考えが違うこと。実際に歩きその土地の雰囲気、人々の姿を肌身で感じないと、わからないことがたくさんあることを改めて思った。

 この日記に書かれている場所はこの辺りです