日記

深夜1時32分
2018.04.09

すっかり寝静まった深夜1時32分…
突然、下から突き上げられるような衝撃を全身に感じ、飛び起きた!一瞬何が起こったか分からなかったが間髪入れずに直ぐに「ゴゴゴゴゴー」轟音と共に激しい横揺れが始まった!あまりの揺れにただ天井を見ることしかできず、「早くおさまってくれ!崩れないでくれ」と思った。
天井の照明もチカチカと光ながら激しく揺れ、ホコリが舞いあっという間に消えた。枕元の携帯電話から「地震です!地震です!」とけたたましい警戒音が鳴り続き、記憶では揺れは20~30秒ほどでおさまった。

咄嗟に次の揺れが来る前に外に出なくては!!と思い、携帯をに手に取りヘッドライトを探し、他の宿泊者と宿の女将さんたちの安否の確認に部屋を飛び出した。「大丈夫ですか!大丈夫ですか!」と叫び、ヘッドライトに照らされる廊下や階段を見ると、内壁が崩れ、戸が倒れ、ホコリが舞って騒然としていた。
「大丈夫ですか!」の声に3階の部屋にいた宿泊客から「全員大丈夫です!」と返事があった。そして、「直ぐに外に出ましょう!」というと「分かりました!」と返事があった。

そのまま、女将さんたちがいる一階へ「大丈夫ですか!大丈夫ですか!」と叫び続けながら下りた。すると部屋の中から「大丈夫よー二人とも大丈夫よー」と声が聞こえたので、全員の無事が確認でき、少しだけ安心した。
女将さんが「ドア固くて開かないの!」と言ったので、直ぐに引戸を力一杯引いた。すると中から女将さんが少し震えながらもほっとした表情を浮かべていた。「お二人とも無事ですか?」と聞くと「大丈夫!3階のお客さんは?」と言ったので、「3人とも大丈夫です」と無事を伝えた。
そして、「また地震が来るかもしれないので外に出ましょう!」と言った直後、二度目の揺れが来た!慌てて女将さんとご主人と外に出た。

旅館の前の道には、屋根から落ちた瓦や崩れた石垣が散乱し、川は水が増えて濁っていた。外に出たときは、地震発生から外に出るまでがすごく時間が経っているように感じたが、あとから振り返るとわずか数分の出来事だった。

少し揺れがおさまり、電気が再びついた合間を縫って、2階駆け上がり、財布とカメラを手に取り、ダウンジャケットを着て、再び外に出た。その際、まだ下りて来ていない3階の宿泊客に声をかけ、「大丈夫です!今行きまーす」の声だけが返ってきた。
ガスの元栓や石油ストーブの確認を終えて、暖かい格好になった女将さんたちと、再び外で合流すると、三度目の大きな揺れが来た。女将さんはなかなか出てこないお客さんが気がかりでならない様子だった。

呆然と立ち尽くしていると、自分の携帯電話を持つ手が震えていた。
そして、地震発生から10分以上が過ぎた頃、全ての荷物をまとめて帰り身支度を終えたおじさんたち3人が外に出てきた。女将さんは「無事で良かったです」と言った。2年前の熊本地震を経験している方がいて、一緒にいた方も落ち着いて対処できたそうだ。

その後、近所に住む息子さんや娘さんたちが駆けつけてきて、とりあえず余震が止まない間、谷間にある旅館の近くにいては危険だからと、僕以外の宿泊客と女将さんたちは、息子さんの車で自宅へ避難された。
宿泊客の方は自分の車で避難しようとしていたが、旅館の道への入り口が土砂崩れとなり道を塞いでしまっていて旅館の駐車場から出れない状況だった。

避難の際に娘さんから「よーきさんも車に乗ってください。」と言われたが、一瞬考えて、「僕は車乗れないので、歩いて避難します。」というと「えっ!?緊急時でもダメなんですか!?」と驚きと少し笑いながら言った。
「いやーどこも怪我していませんし、歩いて避難できないわけではないので」と自分でもこういう時はどうしたらいいのかはっきりと分からないまま言った。
すると、娘さんが機転をきかせて「すぐ近くに消防署の出張所があるのでそこまで一緒に歩いていきましょう!」と言ってくれた。
正直、自分自身でもどうしていいか分からなかったので、その言葉にすごく救われた。

出張所に行くと、すでに消防士の方々が事態の収集に努めていたが、夜中の地震のために発生から1時間が経過していたが、分かる情報はテレビの緊急速報だけだった。最初は余震が続いているために、建物中に入るのが怖かったが、落ち着いて対処する消防士の方々の雰囲気と、差し出してくれたコーヒーを飲んで、徐々に動揺が静まるのを感じた。
それから、時間と共に避難場所が開いたという情報が入り、雨のなか、今度は息子さんと一緒に、三瓶温泉がある志学の集落を抜けて、中学校の体育館へ向かった。志学の集落の建物は、築年数によって地震の影響は違っていた。

体育館には、主に一人暮らしのお年寄りが身を寄せ合うように、車座になっていた。体育館は続く余震の度に、大きな音をたてながら揺れて、避難している住民の方々は、震えるように声を出していた。
中学校の体育館には非常時に必要な物資などが保管されていて、地元の男性たちはマットや毛布、テントや寝袋を引っ張り出して、受け入れ体制を整えていた。僕も一緒になって手伝った。ある程度整ったところで、毛布と寝袋にくるまり、横になったが、今後のことを考えたり、余震が続いたりしてなかなか眠れなかった。避難所にはテレビ局新聞社が取材に来ては、住民の方々に同じような質問を繰り返していた。
ようやく寝に落ちたのは、外が明るくなる頃だった。2時間ほど寝て起きると、中学校に避難していた住民の方々は、すでに自宅に戻られていた。続く余震は怖いが、家の状況が皆さん気がかりのようだ。

中学校の校長先生が、忙しなく動き、今日始業式を迎える小学校、中学校は新年度早々しばらくは休校となると話していた。当然のように入学式は延期となるようだ。
避難所にいた住民の方から、宿泊していた湯元旅館の女将さんたちが旅館に戻ったと教えてもらったので、雨の中一人とぼとぼと向かった。
旅館に着くと、すでに土砂崩れの岩などは取り除かれて、外観や中の状況を見て回る女将さんたちがいた。戻ってきた僕を見て、「ごめんなさいねーこんなときに泊まってもらうことになっちゃって」と何度も謝られてしまった。
その言葉に「謝らないでください。全然そんなことないですから、みんな無事で良かったです。それだけで十分です。地震は誰の責任でもないですから」と精一杯の気持ちを伝えた。

夜明けまで頻発していた余震は発生から8時間以上がすぎて、おさまりつつあった。寝ていた部屋に戻ると、天井からは雨漏りし、敷きっぱなしの布団が、ずぶ濡れになっていた。誇りまみれになった荷物をまとめ、玄関へ戻ると、旅館でそばカフェを始めた娘さんが、変わり果てた旅館や自分のカフェを見て言った。
「これまで、東日本や熊本地震とかをテレビとかでみてきて、そのひどさや辛さ、大変さを感じてきたけど、今回自分たちが被災して初めて地震で被災した人たちの気持ちが分かりました。やっぱり、自分が同じ立場にならないと分からないんだって。」その言葉が心に刺さった。

自分は残って女将さんたちの手助けをした方がいいのか…それとも、またいつも通り歩きだしていいのか。と悩んでいたとき、息子さんからは、「こんなことになっちゃったけど、お袋は本当に陽希さんが来てくれることを楽しみにしていたから、本当に来てくれてありがとうございました。」と涙を流しながら振り絞るように言ってくれ、娘さんたちは「頑張って立て直しますので、陽希さんも頑張って下さい!」と言ってくれ、最後に女将さんは「あなたが旅を続けてくれることが私たちの励みになるから、ゴールまで頑張って」と笑顔で言ってくれた。
とても、僕のことなど気にしている余裕はないはずなのに、湯元旅館の皆さんの心に救われた。

自分にできることをしよう!そう思い、震源地となった大田市から離れた。最後に、笑顔で手を振る女将さんたちに、無事ゴールしたら必ずまた会いに来ますと約束した。

 この日記に書かれている場所はこの辺りです