日記

銀の馬車道
2018.06.17

日本のマチュピチュと言われ、数年前から注目を集めている竹田城址のある竹田駅前の宿より、姫路市へと続く日本初の高速産業道路「銀の馬車道」をたどった。
銀の馬車道は生野(いくの)鉱山、神子畑(みこばた)鉱山、明延(あけのべ)鉱山から採掘される鉱石を運ぶ道であり、当時の最先端の知識・情報・文化をも運んだそうだ。

その中でも、生野鉱山は戦国時代から昭和まで、それぞれの時代の財源となっていたため、最盛期には2万人もの人が、山奥の町に住んでいたという。
その生野の町では、鉱山が国から三菱合資会社(当時)に払い下げられてから、国内有数の大鉱山へとなり、都会からたくさんの移住者が増えて、鉱山社宅にはモダンでハイカラなもので溢れていたという。
その中で、社宅に住む奥様達が作るハヤシライスが、今では街を代表する食の一つとなっていることを知り、今日のランチは生野でハヤシライスを食べることにしていた。

駅に近いお店に入ると、地元の老人会のおじちゃん、おばちゃんたちが会話を楽しんでいた。
ハヤシライスを注文して、待つ間に老人会の皆さんにハヤシライスの事や生野鉱山のことについて伺ってみた。皆さん、生まれも育ちも生野の方で、中には40年鉱山に勤めていたというおじちゃんもいた。
昭和30年代、それはそれは生野の町は賑やかで、当時としては最先端のもので溢れ、都会に出ていかなくても、生野で何でも手に入ったという。
また、鉱山で働く人の給料は破格で、平均収入の10倍以上だったそうだ。そのため、羽振りも良く、町も潤ったという。その中で、ハヤシライスも地元の人たちにとっては珍しい食べ物だったという。一人のおじさんが「スプーンで食べるものがとにかく衝撃的だった。」という言葉が印象的だった。

ハヤシライスをお店で食べるのはかなり久しぶりの事だったが、生野の人たちにとっての思い出の味を堪能することが出来た。
老人会の皆さんに別れを告げた後は、生野の町を散策してみた。
街の建物の中には西洋風や日本風のものが混在し、どれも歴史あるものばかりだった。
当時のものがそのまま保存されているという、日本で初めての鉱山社宅は想像以上に立派な一軒家。当時の裕福な暮らしぶりを垣間見た。

馬車道の最大の峠となる生野を過ぎると、瀬戸内海へと続く下り坂となり、谷間は広がった。
昨日よりも気温が上昇し、蒸し暑くなった1日も、西の空に太陽が隠れてしまう頃には、涼しさを取り戻していた。

 この日記に書かれている場所はこの辺りです