日記

三本杭の由来
2018.05.08

四国の山の中でも、山の名前で一番不思議に思っていたのが、三本杭(さんぼんぐい)という山だった。
四万十川を下りながら、三本杭を登るまでに、その答えを知れたらと考えていた。昨日の休みを利用して、三本杭への登山口となる滑床渓谷(なめとこけいこく)にあるアウトドアセンター万年荘に連絡を取った。すると、応対してくださった方から、目黒という地区にあるふるさと館に行けば、詳しく三本杭の由来を知ることができることを教えていただけた。直ぐに窓口となる町役場の観光課に問い合わせをすると、幸いなことに翌日のふるさと館訪問時に、立ち会っていただけることになった。

そして当日の朝、降りしきる雨の中、江川崎からまずはふるさと館を目指した。雨は弱まるどころか激しさを増した。
午後1時、ふるさと館に到着した。昨日電話で対応してくださった課長さんと展示資料に詳しい担当者の方が、出迎えてくれた。
早速、中に入り国の重要文化財にも指定されているという、江戸時代に作られた大きな木造の立体模型に目を見張った。想像以上に大きく、何と立体模型は観賞用ではなく、重要な裁判資料だという。宇和島藩と土佐藩の間に、宇和島藩から吉田藩が分離してできたため領土問題が起きてしまったらしく、領土を確定させるために、江戸の奉行所で裁判をすることになった。宇和島潘ではこの裁判の前にも、隣接藩との領土問題が起きる度に、木造の立体模型を用い、裁判の資料として領土を決める決め手としたそうだ。

当時としては、かなり正確に争いとなる領土を立体模型にしていることから、宇和島藩が測量の技術が長けていたことが分かるそうだ。なんと、篠山も三本杭と同じような領土争いがあり、立体模型が作られたそうだ。立体模型を作るにあたり、各藩より選ばれた者だけが携わることを許され、嘘偽りなく誠心誠意製作に協力する血判までするほどのことだったという。
そして、三本杭は重要な裁判資料となる立体模型を江戸まで運び、判決が出て、今の山頂となっている場所より、南にある三つの尾根が交わる横ノ森の山頂に各藩の名前がかかれた杭が三本立てられたそうだ。

不思議な名前の山だと思っていたが、領土争いによって裁判が行われた結果が影響しているとは思いもしなかった。
しかし、今では滑床山の山頂がいつしか三本杭と呼ばれるようになったそうだ。
滑床山には一等三角点があるからではないかといわれている。謎が解けてスッキリした気持ちで、滑床渓谷へと向かった。

 この日記に書かれている場所はこの辺りです